No.57  これからもあきらめずに頑張ります

御園 真史  平成29年2月 著

僕は、1年生の9月にグリーンファイターに入団しました。入団してすぐは、たった4人のメンバーで学校で2対2で練習をして、公園に行き遊ぶことが日課でした。でもそんな少しの練習なのに、コーチの方々は、僕に投げる、打つなど野球の基本を教えてくれました。

2年生になって、龍見監督が僕たちの監督になりました。初めての背番号は52番で、4つの背番号の中から自分で決めました。2年生になってもあまり練習が多くなく、休みの日があったので兄のチームの練習に参加していました。兄のチームはみんな背が大きくて速いボールを投げていて、とても驚きました。

3年生になると夏休みが明けたころにたくさんのメンバーが入り、試合ができるようになりました。できるようになったといっても1年生のときから本格的に練習をしてきたチームには勝つことができず、いつも10点、20点の差がついた負けでした。そのため僕は、3年生のときに一生懸命練習してみんなで強くなろうと思いました。

4年生になり、これから勝てる試合が増えてくるだろうと思っていた時、同級生が1人やめてしまいました。同級生がやめた数日後、チームのメンバーが、その同級生が僕のせいでやめたんだと言いました。僕はすごくショックでした。その日の夜、母と話をしてたくさん泣きました。でもそんなとき家族のみんなが話し相手になってくれました。夏休みが明け、練習を始まる前、たくさんの友達が練習に来ていなかったのでびっくりしていたら、その人たちもグリーンファイターをやめたと聞きました。その後は大勢がやめてしまったせいで、練習に身が入りませんでした。

5年生の1年間は大谷監督のAチームで一緒に野球をすることになりました。Aチームはとても厳しくて、冬場は走り込みで家に帰ると靴下がドロドロでした。何度か試合に出る事が出来、とても良い経験になりました。

6年生になり、自分が最高学年になりました。「昨年の経験を生かしてがんばろう」と思いました。でも思うようにはいかず、春の大会、東警察署長杯、夏の大会、FCC大会のすべての大会が3回コールドという結果になってしまいました。しかし、個人では船橋選抜に選ばれました。選抜の試合は数回出たくらいで、レギュラーになることができませんでした。でも、ある試合でバントを決められてとてもうれしかったです。

12月になり、鎌ヶ谷シニア杯がありました。僕たちは1回戦、県大会に出場したチームとの試合でした。そこでは、みんなと力を合わせて頑張りました。僕自身も3打数3安打で、5回2失点と勝利に貢献できました。2試合目も同じように頑張ろうと思いました。でも相手は強く、点を取る、取られるのそんな試合でした。僕は5回を投げ終わり、交代をしてファーストにつきました。その時ピッチャーに替わった快に、「思い切って楽しめ」と言いました。しかし最後は同点に追いつかれ、特別ルールでじゃんけんになりました。1番から4番までは勝ちましたが、5番から9番までが連敗、とても悔しくて泣きました。

2週間後の土曜日、アップ中に足が痛くて走れなくなりました。2、3日前から時々痛かったのですが、念のため病院に行きました。すると筋肉の炎症だと言われ、ほっとしました。若生杯、卒業生大会の2つの大会に出られると思いました。でも正月休みになり、足の痛みが悪化。僕は野球ができなくなると思い、びくびくしていました。そのため4日にもう一度他の病院に行きました。すると先生に、大腿骨頭すべり症と言われました。その後父母に入院と言われ、頭が白くなりました。僕は、中学校では野球どころか運動も禁止だそうです。3年間松葉杖だそうです。本当にチームのメンバーには最後の最後まで迷惑をかけました。でも僕は、グリーンファイターに入って、色々なことを学びました。6年間僕に野球や、野球以外のことを教えてくれた監督、コーチの方々、本当にありがとうございました。これからも入院生活がんばります。


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